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おもいでに残るポプラ  (1988年3月 大北寛さん撮影)

 手賀沼公園に大きなポプラが並んでいた。我孫子市民から親しまれ、我孫子市の第一回景観賞を受賞し、我孫子のシンボルのような木だった。

 植えられてから三十数年が経ち、同じ時期に植えられたほかのポプラが倒れ、大風が吹けばいつ倒れるかわからないほど傷んできたということで、公園の安全管理面から伐採やむなしという結論になった。伐採が決まったとき、何とか残す方法はないものか、切られてしまうのはあまりにもさみしいと思った市民は少なくなかったであろう。

 2003年12月、ポプラの前の掲示板にポプラ伐採のことが出ていた。掲示板には『芽吹き、健康に見える「ポプラ」ですが、「ポプラ」健全度調査の結果現状は、病害虫に侵され、倒木・枯枝落下の危険があります。多くの市民が利用する公園内の樹木の安全性を考えると伐採せざるを得ません。伐採後は、水辺に強く、シンボルとなる樹木の植栽を検討していますのでご理解くださるようお願いします。(我孫子市役所公園緑地課)』とあった。

 手賀沼を撮影している仲間の何人かがポプラの記録を残そうと、夜明け前に、朝焼けのときに、日の出の刻に、日中に、夕方に、花火の日にポプラを撮りためた。伐採予定日だった2004年8月23日は、夜明け前から田渕博之さんとポプラを撮影。作業開始時刻前に大北寛さん、海老原修さん、森かずおさんなどの仲間が集まっていたが、公園緑地課の宮本さんが来て「天気が悪いから一日順延する」と伝えられた。ポプラの最期を見届けたいと、休暇を取って来ていた海老原さんはがっかり。でも、ポプラが一日延命したことを内心喜んでいるように見受けられた。

 翌24日は晴れ。伐採作業の準備ができた広場とポプラを夜明け前から撮る。出勤途中公園に立ち寄った海老原さんは、出番を待つチェーンソーなどを撮って、急ぎ足で仕事に出かけた。森かずおさんと作業開始時間を待つていて、カメラにメモリーが入っていないことに気がつき、大急ぎで自宅まで取りに帰った。公園に戻ると一本目の伐採が終わっていた。二本目の準備が始まるころ大北寛さんが来た。もう一人撮影していた人がいたが見知らぬ人だった。

 作業者がポプラに登って幹の中程にロープを結び、その先端を離れて留まっているトラックに繋いだ。チェーンソーのエンジン音が響き、チェーンソーがポプラに食い込むとき「ギャー」という悲痛な叫びを恐れた。だが、ポプラは叫び声を上げることもなく、一瞬チェーンソーのエンジン音がトーンを変えただけ。飛び散る木くずがポプラの周りに落ちた。トラックがゆっくりと動き出すと、ポプラは少しずつ傾き始めた。ファインダー越しのポプラは、スローモーションを見ているかのようにゆっくりと、枝先をしならせながら倒れた。「バサッ」と着地し、もう一度バウンドしてから静かに横たわった。

 倒れたポプラは運びやすい長さに切断され、クレーンで運ばれた。突然クレーンが前のめりになり、一瞬「倒れる」と思ったが、とっさのリカバリー操作でクレーンは倒れずにすんだ。さすがプロの腕。クレーンから降りた女性のオペレータは「もうダメだと思った。ああ恥ずかしい」と一言。広場の地盤が悪く、ポプラの重みでクレーンが沈下したようだ。伐採から運搬まで、中村作業所の熟練技はみごとだった。

 四本目のポプラが伐採された。根本の切り口には空洞ができ、どぶ水のような臭いの水がにじみ出ていた。幹の途中には鳥の巣だったもあった。樹木医が切り口からカミキリムシのさなぎをとりだして、これがポプラを腐らせて、幹の中心がスポンジ状になったと説明してくれた。

 大北さんの「どうしてここにポプラが植えられたのか」という質問から、39年前にポプラが植えられたいきさつが判明した。そのときのことは、大北さんの撮影ノートに詳しく書かれている。

----大北さんの撮影ノートより引用----
 「北大のポプラは70年になると聞いていますが」
 私は樹木医に質問しました。
 「ポプラという木は手賀沼湖畔のように水位の変動の激しいところには向かないのです」
 「それでは、なぜ、ここに植えたのでしょうか 」
 「じつはねぇ・・・・」
 そばにいた人がぼそぼそ話し始めました。細身で背の高い人でした。「我孫子市広報室長 日暮」という名札をつけています。
 「私たち小金高校の一期生が植えたのです」
 まわりの人たちは10人ほどになっていました。みんなはっとして、いっせいに日暮さんの話に聞き入りました。
 「今から39年前、小金高校の一期生が2年生になった時、校庭の周りに一期生の数だけのポプラを植えることになりました。木の苗は枯れたりする可能性があるので、一割増やした数の苗が届きます。その余った苗をどうしようかという時に、『手賀沼公園の湖畔がいいぞ』と言いだした同期生がいました。それが、この春まで我孫子市役所の公園緑地課長をしていた荒井君なのです。植えた本人が、のちに公園の責任者になってこの木の伐採を決定したのですから、それで良かったのではないでしょうか」
 残す方法はないかという気持ちで見届けていた人たちも、荒井さんってどんな人だろう一度会ってみたいと思いながら日暮さんの話に納得したのでした。
----引用終わり----

 昼休みに駆けつけた海老原さんが、伐採され、切断されたポプラを撮っていた。我孫子で育った小金高校のOB、我孫子で生活してきた海老原さんは、仲間の誰よりもポプラへの思いが強いようだった。積み上げられたポプラの一部は記念にアビスタに保存され、希望者には輪切りにしてくれるとのことだった。臭いに惹かれてゴキブリが集まってくるという樹木医の話を聴いて、記念にもらうのは断念した。

 翌25日朝も手賀沼公園に出かけた。憩いの広場から見たポプラのない景観はなにか物足りない感じだ。昨日朝までポプラの根元で遊んでいたアヒルたちは、何事もなかったかのように切株の周りに。切株を撮っていたら「何かあったんですか」と声をかけられた。「昨日ここのポプラが切られたんですよ」と言うと、始めてポプラがなくなったのに気づいた様子。公園の突端に行く人たちは、ポプラの切株には無関心な様子で通り過ぎる。海老原さんが、切株の穴をのぞき込むアヒルを撮った。この写真への感想もいろいろ。伐採されたポプラに対する思いは人様々だ。

 9月18日、切株の横に小さな芽が出ていた。そのうち切株の周りにはびっしりと芽が吹き出し、伸び始めた。「まだまだ死んでないぞ」とポプラのつぶやきが聞こえるようだ。9月25日、ポプラの切株から出てきた新芽を採取して、山口美栄さんに挿し芽してもらった。苗木は海老原さんと田渕さんが持ち帰って育てた。

 10月末、ポプラの切株は掘り出され、撤去された。11月9日、跡地にメタセコイヤが植栽された。その横に、植栽したロータリークラブの記念碑が建った。立派な記念碑は、植えられたメタセコイヤよりも、植えたロータリークラブの存在をアピールしているように感じたが、思い過ごしだろうか。そして、12月には我孫子市によるポプラの記念碑が建った。

 11月1日、田渕さんが我孫子市民プラザの使用申し込みに行き、抽選で2005年7月29日〜8月2日の使用を引き当てた。 手賀沼撮影の仲間「ArteF」のみなさんにも協力頂いて、無事写真展も実現した。期間中には703名の方々にご覧いただき、福嶋浩彦我孫子市長や手賀沼公園にポプラを植えた荒井茂男さんにもおいで頂いた。海老原さんが育てたポプラの苗木を会場に展示し、何処に植えたらいいかアイディアを募集した。福嶋市長からは、「五本松公園のキャンプ場がいい」との意見を頂いた。今は、大きく成長したポプラを想像し、植栽できる日を楽しみにしている。

 ポプラのミニ歴史(出展 手賀沼公園のポプラについて・我孫子市)  
 1965.5 小金高校1期生が校舎周辺へ暴風対策で植栽した残りを植栽
 1987.2 ポプラは19本(公園台帳)
 1992夏 ポプラは16本(公園マップ)
 1997年度 第1回我孫子市景観賞を受賞
 1998年度 既存ポプラの間に幼木(約2m)を植栽したが、現ポプラの根がはびこっているため育たず、2年後にはすべて枯死
 2000年度 2市1町の「手賀沼を生かしたまちづくり推進委員会」による手賀沼八景に手賀沼公園が選ばれる
 2000.9.3 鳥の博物館前遊歩道のポプラが地上1mのところで折れ、隣地駐車場の車を直撃、ボンネット、フロントガラス、屋根等を破損(平均風速13.3m、瞬間最大風速24.4m)
 2001.9.10 台風10号で鳥の博物館前遊歩道3本倒木(残り2本は危険回避のため伐採)。手賀沼公園1本倒木(平均風速7.2m、瞬間最大風速34.0m)
 2002.10.1〜2 台風21号により1本倒木、1本大きく傾斜(伐採)
 2003.2 ポプラ健全度調査を実施
 2003.10.13 ポプラの今後について現地現況報告および意見交換会開催
 2003.12.16 我孫子市広報、ホームページ、アビスタおよび手賀沼公園ポプラ前掲示板、公園緑地課窓口で情報提供し、市民に意見を求める
 2004.8.24 ポプラ7本伐採