元和七年(1621) 幕府、赤堀川の開削を始め、利根川の水を常陸川と江戸川に振り分ける。承応三年(1654)竣工する。
寛永八年(1631) 幕府、手賀沼と江戸川(太日川)を結ぶ運河開削を計画するが、将軍秀忠の死によって成らず。(徳川実記)
寛文元年(1661) 代官細田小兵衛、近山五郎右街門は武蔵・下総・常陸の新田と河川の巡察を命ぜられる(新利根川開削のため)。(徳川実記)
寛文三年(1663) 細田、近山が竹袋村新田検地。同五年(1665)布佐村新田検地。
寛文六年(1666) 幕府は新利根川を開削し(八里、32キロ)布川−布佐間の利根川を締め切り、下利根川一帯の新田開発をもくろむ。代官細田、近山二人が担当する。同年洪水により失敗す。(徳川実記ほか)
寛文七年(1667) 前年の洪水により破壊された新利根川は廃止され、水流は元に戻される。二人の代官は罷免され、それぞれ棚倉・三春藩に預けらる。(徳川実記) しかしこの第一期新田開発により、利根川−手賀沼間(布佐・大森・竹袋村)等で約1300石余の新田開発。延宝元年(1673)までに検地高入れ終わる、丑新田。
寛文十一年(1671) 江戸の商人、海野屋作兵衛ら17人の商人を新田請負方として手賀沼開発許可される。六軒・木下に圦樋と堤が設置され、手賀沼はほぼ閉鎖水域となる。(成田山霊光館所蔵文書)
延宝元年(1673) 新田請負方商人仲間が議定を作り、落堀築留工事をする。(延宝元年十月「中間立会相定申連判状」印西市富田家文書)
延宝五年(1677) 新田請負方伊勢屋彦左衛門ほか四人、65両の分担金払えずに開発から手を引く。(延宝五年十月「手形之事」同家文書)
延宝六年(1678) 鍬下七年の期限を三年延長してもらい、新田請負方四人にて380両上納し、再割り振りの絵図作成する(海野作兵衛、河内や長兵衛、伊勢屋清左衛門、吉屋又右衛門)。(延宝六年八月「取替シ申絵図手形之事」同家文書)
天和元年(1681) 海野屋作兵衛「新田請地400石面、手作地100石面」子々孫々に残すよう遺言を残す。(延宝九年四月「遺言状之事」印西市海野実家文書)
この年一〇年の鍬下年期切れ、検地できず「反高請地」(290町余)として設定。
元禄二年(1689) 村田屋嘉兵衛(腰川)江戸から新田地を購入して、発作に移住する(問口155間、沼行御新田並の土地を30両で)。(元禄二年一月「手形之事」印西市腰川哲夫家文書)
元禄十五年(1702) 手賀沼入会漁業権認められる。(裁許状・沼南町石原貞昭家文書)
宝永元年(1704) 江戸蔵前富田忠次郎、発作に移住し、新田開発に従事する。(手賀沼沿革誌)
正徳元年(1711) 鷲野谷村下、四町六反余を21両で鷲野谷村に譲り、山中正倫撤退。(正徳元年十月「譲渡申地面之事」沼南町染谷勝彦家文書)
享保十二年(1727) 手賀沼千間堤築く。同十四年(1729)竣工。(天保六年沼南町小林稔家文書)
享保十五年(1730) 手賀沼古新田検地、1300石余高入れされる(戌高入れ、寛文期海野作兵衛らの開発新田)。
享保十六年(1731) 手賀沼反高場検地、沼の水内地所できる。
享保十七年(1732) 布瀬村、鳥猟の鳥を他村の仲買いに売ることを禁止する。(沼南町湯浅弘行家文書)
享保十九年(1734) 洪水、利根川からの逆流により千間堤切れる。(印西市岩井啓治家文書)
天明五年(1785) 老中田沼意次、手賀・印旛沼開発を計画するが洪水で断念する。排水路の整備に徹する普請を実施。
天保十三年(1842) 大森村、竹袋村と手賀沼三九か村新田の悪水出入り激化、多くのけが人を出す。(沼南町石原貞昭家文書ほか)
慶応二年(1866) 筑波郡谷田部新町沖右衛門ら、手賀・印旛両沼開発願書を出す。(沼南町湯浅弘行家文書)