従来手賀沼開発にかかわる論考は、大正十二年(1923)に刊行された『東葛飾郡誌』に頼ることが多く、研究は停滞混乱しているように思われる。郡誌は大正時代のものとしては、多くの史料を載せて参考にすべき点はあるが、厳密な史料批判もないまま、ときには「千間堤人為的破壊説」のような伝聞も採録されている。手賀沼は柏市・我孫子市・沼南町・白井市・印西市にまたがり、市町村史の編纂は進んでいるものの、地域を網羅した史料採集、研究は少なく十分とは言えない。このため比較的容易に手に入る郡誌や、植村国治氏が明治四十三年(1910)に50部を上梓した『手賀沼沿革誌』、印西市の刊行になる『吉岡家旧記』等が頻繁に利用されてきた。年表式に記述されたもので比較的利用しやすかった点がその理由であろう。『旧記』は木下河岸問屋の吉岡家に残るもので、おそらくその当主が安永期(1772〜81)以降にまとめたものであろう。100年以上の時間的経過があり、木下河岸の問屋を続けていくために、子孫に書き残すという意図のもとに書き残された史料的制約もある。

 以上のような研究状況の中で、手賀沼開発の同時代史料の発掘がおろそかにされてきたという課題が残されてきた。 現在の手賀沼研究に求められていることは、各市町村や行政機関などに広範に残された原史料の中から、同時代史料を地道に発掘して、『東葛飾郡誌』などの誤謬を検証していくことが必要となる。『沼南町史』に収録した『手賀沼関係資料』はこのような意図のもとに、20年前から始まった手賀沼関係の史料調査に基づいて準備されてきた成果である。まだまだ十分とは言えないが、関係市町村のご協力も得て収集した史料の中から、130点を掲載している。

 幻の「千間堤出入り」
 手賀沼開発の研究を混乱させてきた理由の一つは、『東葛飾郡誌』の鳥猟来歴に記載された次のような著述である。

 「元文五年申八月十五日夜、村々人足三千五百余人の人々二手に分かれて、一手は相馬郡布施村(布瀬か)宮下に集中し、一手は相馬郡沖田村の下に集中し、相馬郡中里村の荷へ塚山にノロセを置き、之を合図として一時に猛烈なる勇勢にて千間堤を破壊されたり。遂に四十尺余の切れ所となれり。下沼開墾は追々廃田となり、鳥猟場は又下沼となれり。」戦後なお古老の話として、手賀沼一帯に流布していた話である。事実千間堤の跡は二か所の切れ所を持ったまま存在していた(現在は干拓されており、浅間橋のある付近)。この千間堤人為的破壊説は具体的な時と場所が特定され、堤の跡さえ目の前にあったため否定することは難しかったものであろうか。この出入りが幻の出入りであったことは、既に1990年刊行の『沼南町史研究』創刊号で論述したとおりである。享保十九年(1734)岩井家史料を見れば、千間堤が竣工五年後には既に利根川から逆流してきた洪水によって破壊され、切れ所ができ、堤として機能しておらず、以後一度も修復されなかったことが分かる。

 上沼(千間堤上流の村々一と下沼(堤下流の村々)の利害の対立は全くなく、むしろ新田三九か村組合は共同して行動しており、木下河岸・竹袋村など利根川への排水口にある村との排水をめぐる出入りと混同していた。

 享保の新田開発の失敗
 なぜこのような人為的破壊説が生まれたか、その歴史的な背景を考えると、吉宗の享保改革の一環として実施された新田開発の失敗を隠す役割を果たしているように思われる。

 千間堤は享保期(1716〜36)の手賀沼新田開発の目玉的工事で、吉宗自ら紀州藩から連れてきた紀州流土木工事の巧者、井沢弥惣兵衛によって計画され、同じ紀州出身の豪商高田友清の出資によってできた開発と通常言われてきた。いわゆる紀州トリオによる開発は、後代の吉宗名君説によって、批判しにくいものになっていた。また高田友清の子孫高田与清が幕末に出た有名な学者で、相馬日記で祖先の偉業をたたえる記事を書いたことも影響した。さらに大正期(1912〜26)文部大臣になった高田早苗博士はそのまた子孫に当たる。大正十二年に刊行された『東葛飾郡誌』を書いたのは、東葛飾郡教育会の人たちで、文部大臣の祖先が行った手賀沼開発は全くの失敗で、高田堤は最初から「無用の長物」だったなどとは書けなかったものであろう。

 しかし事実は、千間堤はまさに「無用の長物」だったのである。この享保期の新田開発は千間堤の竣工後、わずか数年で利根川の逆流によって破壊され全くの失敗に帰した。鳥猟はすぐにまた下沼に戻されたし、享保十六年(1731)手賀沼水内の反高場検地を実施しただけでごまかした。この享保期新田開発の評価を間違ったところに、手賀沼研究の混乱の第二の要因があった。前述の『手賀沼関係史料』にはこのような問題を立証し得る史料を集めたつもりである。

 現在に至るまで享保の手賀沼開発は次のように理解されている。寛文期(1661〜73)に始まった手賀沼の新田開発は、10年後の天和元年(1681)に検地高入れされ一応完結した。二度目に当たる千間堤を築いての享保期開発は十二年に起工し、十四年には竣工した。翌享保十五年(1730)の検地で1500石余が検地高入れされ下沼開墾は成ったが、元文三年(1738)の洪水で新田も追々元に戻ってしまった。要約すれば以上のような理解であろう。

 享保十四年(1729)に堤ができて、たった一年で検地ができ、1500石もの高入れ地ができるのはおかしいという疑問がわいたとは思うが、実際に十五年に検地が実施されているのは明らかであり、疑問に思いつつもあいまいにしてきたのが実情であった。享保十五年の検地帳表紙の「手賀沼古新田之内下総国印旛郡発作新田検地帳」の中に「古新田」とはっきり断わっている。この検地帳は今回の新田ではなく、古い新田の検地であるとはっきり記されている。

 「戌の高入れ」をめぐって手賀沼干拓絵図から検証しよう。享保十五年(1730)の検地で高入れされたのは、絵図の「戌の高入れ」である。手賀沼新田開発の大部分を占める新田である。この新田は下沼にも、上沼にも存在する。千間堤のあるなしに関係ない。つまりこの新田は60年以前寛文期(1661〜73)に始まった海野屋作兵衛らによる新田開発の成果を、排水がままならず、悪戦苦闘の末ようやく享保十五年になって検地高入れされたものだったのである。寛文期の開発は鍬下年期を三年延ばして、10年後の天和元年(1681)に検地高入れして終わったと言われてきたが、手賀沼新田は圦樋で利根川をつないで排水していたため、利根川の水位が上がれば締め切らざるを得ず、沼内は水堪の状況が続く。ときには圦樋が破壊され利根川の水が逆流してくる。このため天和検地は実施できず、「反高場」の設定にとどまった。反高とは、まだ開墾されず葭原や水内地所で高入れできない土地のまま、わずかの税と引き替えに農民に渡すものである。天和の検地帳が発見されないのはこのためである。約300町歩の反高の設定はしたが、高入れしたのは見取場の100石余だけだったのである。

 寛文の開発からおよそ二〇年後の元禄期(1688〜1704)ころになっても、土地の譲り状がとても安く譲られていることが反高地である証左である。例えば元禄二年(1689)江戸の商人村田屋嘉兵衛は、新田地四か所を買って発作に移住した。その土地は、間口55間、沼行所並、間口100間、沼行御新田並、ほか田二反、畑三反で、30両で譲り受けている。譲り主は、植村三郎兵衛、加判海野藤左衛門である。沼行はおよそ300間と見て約16町歩である。周辺の土地の値段の十分の一以下であろう。開発以来17年を経て新田地の生産力はこの程度の評価だったのである。このような土地の表記によっても、検地はまだ実施されていないことが分かる。

 譲り主の植村は延宝四年(1676)江戸小舟町から発作に移住し、新たに新田請負方に加わった人で、発作村ができると惣左衛門組の名主になる人物である。海野は作兵衛の息子で、のち発作村藤左衛門組の名主を勤める。

 当初からの出資人だった17人の江戸の商人のうち、元禄期まで残ったのは海野屋作兵衛一人であった(子供の代になっている)。次々に資金を調達できず商人たちは撤退した。それだけ手賀沼新田開発は、過酷なものであった。撤退した商人に代わって新たな商人たちが元禄・宝永期(1704〜11)に土地を譲り受けて手賀沼新田開発に乗り出す。前述の植村・村田(腰川)、宝永元年(1704)富田屋忠次郎も発作に移住し、新旧請方となり現在に至るまで発作に居住する。

 しかし排水路を整備してもすぐ洪水で破壊され、手賀沼の新田の耕地化は進まなかった。圦樋や堤防が決壊した洪水だけでも、元禄元年(1688)六軒圦樋破壊、同十三年(1700)六軒圦樋破壊、宝永元年布佐堤防決壊、正徳二年(1712)築留圦樋と堤防40間決壊、享保六年(1721)には木下で利根川の水位は一丈三尺(約四メートル)上がり、布佐の堤防が決壊した。手賀沼はそのたびに大洪水に見舞われ水堪の状態は続く。享保の開発が始まる直前までの手賀沼は、大概以上のような状況であった。

 井沢弥惣兵衛への疑問
 後世の八代将軍吉宗名君伝説によって、千間堤を築いての亨保新田開発の失敗は隠され、彼が登用した井沢弥惣兵衛紀州流土木巧者説も伝説化された。そして後世の学者高田与清によって、自らの祖先高田友清の功績、高田堤伝説も生まれる。千間堤も人為的に破壊されたという、全く根拠のない「幻の千間堤出入り」の話までが巷に広がり、郡誌に書かれたものであろう。

 井沢は紀州から呼び出されてまだ数年、高齢で(七四歳)当時見沼新田に携わっていた。手賀沼に一、二度見分に来たことはあったかもしれないが、複雑な手賀沼と利根川の地形を精査して計画できる立場にはいなかった。『吉岡家旧記』など後世に書かれた史料以外、井沢の計画による開発だとしている史料はない。事実「徳川実記」にも、「寛政重修諸家譜」にも井沢と手賀沼を結ぶ記事は全くない。元文四年(1739)井沢弥惣兵衛が、手賀沼新田方として出てくる史料はあるが、初代弥惣兵衛は前年死亡しており、これは子供の楠之丞である。確かに二代目井沢弥惣兵衛は父死亡の後を継ぎ、父と同じ勘定吟味役として手賀沼にかかわる。旧記はこれを混同し、初代弥惣兵衛も手賀沼新田方だと勘違いしたのではないか。

 歴史の叙述がどのようにして問違った方向に流されるか、吉宗人気というような個人を英雄視していくことが生み出す弊害を見る思いがする。

 以後の手賀沼開発
 以後元文三年(1738)、寛保二年(1742)と立て続けに大洪水に見舞われ、千間堤決壊後の排水路の整備を中心とした工事が行われる。

 千間堤の修復工事は一回もなされた形跡はない。天明三年(1783)の浅間山噴火により、火山灰が利根川に押し流され川床は上昇し、洪水が頻発した。幕府は下利根川流域の抜本的な排水を管理するため、老中田沼意次自ら手賀沼−印旛沼をつなぐ水路と、東京湾に運河を造るという計画を立てるが、同六年(1786)の洪水により断念し、以後排水路の整備に徹した工事にとどめた。手賀沼沿岸の地元民から、天明度の工事が最も役に立ったと評価された御普請であった。

 しかし、排水路は洪水や出水のたびに埋まり、天保十三年(1842)には手賀沼の排水が利根川に落ちる木下地先の排水路を、木下大森村などの舟が邪魔していると手賀沼新田村々との出入りが再発し、けが人を出すほどにエスカレートしていた。

 宝暦期(1751〜64)から始まったこの対立はこの時期に来て竹槍、鳶口などまで持ち出して血が流される出入りとなった。千間堤が人為的に破壊されたという、あの話にすり替えられることにもなったのはこの出入りであった。幕末明治期にも様々な人や団体が手賀沼の開発を願い出るが、いずれも成功していない。第二次大戦後の、機械排水による完全な排水が可能となるまで、手賀沼の根こそぎ開発は不可能であったのである。