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宝永の手賀沼絵図 柏市教育委員会蔵  拡大図  転載不可

 伊能忠敬以前の測量図
 2003年、旧沼南町の公民館で「第2回沼南のむかし」という資料展示があって、この宝永の手賀沼絵図(以下宝永図と呼ぶ)にはじめてお目にかかる。

 私は地図を眺めるのが好きである。手賀沼は戦後の大干拓によって、一挙に1/3ほどの水面に縮小したが、私はそれ以前の、明治期の迅速図や最初の正式地形図(明治39年陸地測量部発行)を眺めては、かっての広々とした沼を想像していた。それだけに、手賀沼の形は自然と頭に入っていたので、宝永図を見たときは大変な驚きであった。私が見慣れていた明治期の地形図と変わらないではないか。この絵図は測量をした上で描かれた、かなり正確なものだ、と直感した。

 私は地図の歴史というのを知らない。簡単な歴史年表などを見て、伊能忠敬が蝦夷地を測量したのが1800年という切りのいい数字であることを知っていて、これが日本で最初の測量による地図である、と思い込んでいた。何と、この宝永図は宝永元年(1704年)と記しているので、伊能忠敬測量の約百年前のものである。一瞬、偽物ではないかと思ったほどである。

 私が宝永図に強い関心を抱いた理由は二つある。一つはこの時期の手賀沼の水面である。1704年といえば、利根川を東遷(赤堀川通水一六五四年)してわずか五十年、関ヶ原の戦いから約百年後である。いわゆる香取の海とのつながりはどうであったか。宝永図の沼は、既に出口は完全にふさがっていて、利根川まで水路が延びている。しかも利根川土手のところに圦樋(いりひ)らしい標(しるし)も見られる。基本的には現在の沼の姿と変わりない。したがって、香取の海の一部であった時期は、かなりさかのぼるのではないかと思われる。このことについては、あらためて書きたいと考えている。

 絵図と地形図が重ならないか
 二つ目の関心は、宝永図はかなり正確な測量をやっていると思われるので、警察がやる指紋の照合のように、現代(明治以後)の地形図に重ならないかということである。地形図にはめ込むことができれば、三百年前の手賀沼をほぼ再現したことになる。

 この計画は、幸運なことに、本会の会員で、コンピュータ・グラフィックスの作成に堪能な山田宏さんに出会うことができ、実現に向かうことになる。相談してみると、大変興味をもってくれて、面白そうだ、やってみましょうと言ってくれた。

 山田さんは絵図のことを知りたいと図書館へ行って、川村博忠著「近世絵図と測量術」という本を探し出した。絵図の種類や測量の技術などを紹介していて、私も主要部のコピーを山田さんから借りて読んだ。今回の「三百年前の手賀沼再現」の最も適切な参考書であった。この本で、伊能忠敬以前に測量図の存在することを知る。宝永図はその一つであり、当時の国や村の境界争いで使われる、「論所絵図」の形式を取った絵図であることもわかった。

 絵図を重ねる地形図は、最新の、地形や道路の大きく変えられたものより、できるだけ古い地形図がよいと考え、明治39年陸地測量部発行の、この地方での最初の正式地形図を選んだ。

 山田さんから最初に重ねたプリントをいただいたとき、予想はしていたがかなり大きなズレがあった。規則的なズレではない。やはり駄目か、といったんあきらめかけたが、何度か眺めては手掛かりを探す内に、宝永図の畑や田の最も外側の線と、明治の地形図の手賀沼を取り巻く道とが同じ形であることを発見する。ズレが出てもとりあえず両図を重ねることが、同じ形の発見につながった。地境の大半が現代でも沼の外周道路となっているのである。

 山田さんに電話を入れたら、彼もそのことに気づいたらしい。私は、明治の地図上に赤鉛筆で私なりの想定線を入れて渡す。山田さんは地境の標高にも注目していて、五米以内だという。最も外側の線が確定したので、それに沿って内側の草地や水面を描き入れることができた。


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300年前の手賀沼再現図  拡大図

 宝永図の精度と変形
 宝永図には「分詰メ百間ニ付七分宛え積ニ仕候」と縮尺が明記されている。一間を六尺として1/8571となる。両図を重ねることができたので、各ポイントを定め寸法を当たれば、実際の距離と宝永図との誤差を知ることができる。これは宝永図の精度の検証である。最初山田さんと複製の宝永図の寸法を当たりに行った。平均95%という数字が出たので、複製時の縮小の可能性も考え、次は実物に当たる。結果は同じであったが、その度に、旧沼南町社会教育課の高野博夫さんを煩わすことになった。

 以上の宝永図の精度の検証については、山田さんの報告を読んでいただきたい。かなり正確な測量をしているにもかかわらず、下沼方面の距離は縮んでいる。これは宝永図を見てもわかるほどで、下沼方面が少しやせて見える。山田さんの報告は、それを数字として明瞭化したものである。彼は、この縮みは上沼方面の測量の正確さから考え、意図的なものである、と断定している。これは争論の内容に関わることで、次章で述べることにする。

 宝永図の背景―争論の内容―
 これほど正確な、当時として恐らく最先端の技術を使った絵図が何故必要であったのか。文書資料と絵図がセットで残された、ということは珍しく幸運な例だそうである。宝永図に関係する資料を「沼南町近世資料U」から転載する。

 「手賀沼入会漁業裁許状」の内容を追ってみる。
 手賀村、布瀬村、片山村と手賀沼新田、沖田村、新木村、中里村、市部村、岡保戸村、戸張村の七ヶ村(書状には六ヶ村の村名しか書かれていない?)の二つの村グループが漁業権を争った。三ヶ村の方は伝統的に漁業に携っていたと思われる。現在でも手賀沼漁業組合の組合員の最も多い地域である。この三ヶ村が昔から漁業権のための年貢をおさめてきた、といって、七ヶ村に対し沼での漁猟をやめろ、と漁業権の排他的権利を主張した。一方七ヶ村側は、手賀沼縁の二十五ヶ村全部の入会漁業権を主張した。そこで評定所では、川役銭、舟運上といった種類の税を領主や代官に納めているかを調べ、二十五ヶ村の内、泉村、鷲谷村、岩井村、箕輪村、芝原村、我孫子村、広山村、発作村八ヶ村の入会が認められた。七ヶ村グループはいずれの村も税を払っていなかった。尚、八ヶ村の内「広山村」とあるのは「広野山村」のであろう。この八ヶ村のなかに、宝永図の主である大井村は入っていない。

 宝永図の作製目的
 何故大井村が「手賀沼入会漁業裁許状」に現れないのか、それは次の資料の「大井村沼入会漁業につき達書」にその答えが書かれている。つまり先の争論の折(「手賀沼入会漁業裁許状」)に、大井村は領主に役銭(税)を払っているにもかかわらず、申し出でをしなかったのは不届きである、と叱られているのである。

 何かの理由で届けがなかった。そのため、大井村は一村だけで三ヶ村(手賀村、布瀬村、片山村)に訴えたのである。そのとき付した絵図が宝永図で、絵図左下に、絵図の縮尺、訴訟人、相手の名前、双方の絵師名も記されている。いわゆる論所絵図の形式をとっている。

 宝永図の日付は宝永元年(1704年)4月となっていて、「手賀沼入会漁業裁許状」の裁許状の二年後のものである。宝永図で、川猟の村色として白く表された十一ヶ村が二年前の「手賀沼入会漁業裁許状」の裁許の結果を表現している。

 宝永図は正確な絵図だけに、表現されている内容は豊富だが、訴訟上必要であったのは次の二点ではないだろうか。一つは、大井村が手賀沼に面した村であること、二つ目に、一村だけの孤独な訴えだけに、二年前の裁許の結果を入れ、漁猟を認められた村々やその他の村々との地理的関係を評定所に認識して貰う必要があったのではないだろうか。

 ここで、下沼方面の形が意識的に小さく描かれている理由がわかってくる。訴えられた三ヶ村の漁猟の舞台である下沼方面が小さく描かれることは、相対的に上沼西端近くの大井村の漁猟の舞台が広く見えることになる。大井村もこれだけ広い水面を抱えているのだ、と言いたかったのであろう。

 おわりに
 宝永図を見ていると気になる村がある。「柴原村」である。後の中峠村であるが、この村は手賀沼に面していない。中里村の背後にあって、漁猟は利根川で行っていたとしか考えられない。「手賀沼入会漁業裁許状」の元禄の裁許状は、川役銭を払っているという割付書(租税台帳)をもとにしたもので、地理的認識はなかったようである。地図としての宝永図は、手賀沼周辺の村々の地理的関係を正確に表すものとして、大井村の訴えを補完する万全の備えであったに違いない。

 しかしながら、宝永図を当然みている筈の評定所役人は、あらためて確認したのであろうか。訴えられた方の三ヶ村に対し「相尋處(大井村は)手賀沼之他致漁猟沼無之旨申候」とある。(資料「大井村沼入会漁業につき達書」) 大井村は手賀沼の他に漁猟出来る沼はない。と訴えられた方の三ヶ村が証言している。裁きとしてはこれ以上の証言はない。その結果として「大井村茂手賀沼ニ而如前々入会漁蝋可致之者也」(資料「大井村沼入会漁業につき達書」)、大井村も今までと同じように手賀沼で漁蝋をしてよろしい、と認められた。

 現代ならば地図をみれば一目瞭然である。江戸時代は、まだ現代のような地図による共通の地理的認識がなかったので、如何に正確な絵図でも裁きの証拠にはされなかったのであろう。

 宝永図の情報量は多い。明治期との水面の異同や、低地の干拓村であろう人家の図示等、興味はあるが、まだ疑問だらけの段階である。今後の研究の進展によっては、新たな発見が期待できそうである。

 宝永図の写真撮影、寸法精度の調査等では、柏市教育委員会文化課の高野博夫さんには大変お世話になりました。
 宝永図に関わる史料、「手賀沼入会漁業裁許状」、「大井村沼入会漁業につき達書」、宝永図の文面等の読解については、近世史家の中村勝氏に教わりました。

参考文献
川村博忠「近世絵図と測量術」(1992年)古今書院
沼南町史研究第2号(1991年)「三通の裁許状―江戸時代の手賀沼漁業関係史料T―原淳二」

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
企画中津川督章さん
制作山田 宏さん
写真撮影菅谷孝之さん