中学の農業実習。教室にいるよりは楽しかった。
米を作ることが国を豊かにすると習っていたし、
半世紀後の今を誰も想像できなかったであろう。


 なまえは詮。「あきら」と読む。名前を「セン」と読むので、「ビールの栓ではない」と言ったら、30年間近く年賀状に「栓」と書いてくる人もいる。昔の仕事仲間は「コンちゃん」と呼んだが、悪さをすると「コンスケ」になった。

 うまれは静岡県小笠郡菊川市。昔の町名は堀之内。停車場がすぐ近くにあって汽車を見に行った。1938年4月生まれだからだいぶ昔のことになるが、目を閉じると「D51」の姿が見えるようだ。

 3才くらいで浜岡町(合併で
御前崎市になった)に移り、いたずら小僧の時代を過ごす。村役場のガラスを割って叱られ、お宮の境内で草野球をやったのもこのころ。このページを見てふる里浜岡町教育委員会社会教育課からメールを頂いた。懐かしく感激。入学したのが新野小学校、転校して卒業は朝比奈小学校、朝比奈中学校。最近ふるさとを訪問したが、学んだ小中学校はもうなく、跡地には幼稚園や町のグランドになっていた。子ども時代に魚取をして遊んだ川はコンクリート三面張り。もう子どもたちも遊ばないだろう。遊び歩いた野山にも立派な道路が走り、山の形まで変わったようだ。

 高校時代は
掛川市まで通う。掛川城のすぐ下にある掛川西野球が強かった。自分では目立たぬ生徒だと思っていたが、最近そう言ったら同級生に笑われた。ラジオ作りに熱中し、冬になると駅伝の雇われ選手で、あまり勉強した記憶がない。1時間かけてバスで通学した。たまにバスが遅れると、1時間目をさぼったが、逆川を眺めていて後ろから化学の先生に写真を撮られ、エスケープしたのが発覚したこともあった。
 
(左)掛川城         (右)兼六園

 一年間まじめに東京の予備校に通い、金沢で4年間の学生生活を過ごした。酒を飲むことを覚えたのがこのころ。最初のコンパで飲み過ぎ、同級生が下宿まで連れて帰ってくれた。途中休んだ兼六園で眼鏡をなくし、翌日ははじめて質屋ののれんをくぐった。今でも期末試験が近づく恐怖の夢を見る。夢の中で、「俺は卒業したはずだから、もう試験に落ちても困らないぞ。これは夢だ。」と自分に言い聞かせたことがある。金沢で覚えた言葉に「りくつな」があるがいまもって意味はよくわからないが、「りくつな」学生ではなかったようだ。

 幸いなことに、入社試験のない時代に就職、高度成長の中で働くことが美徳と思って走ってきたが、どうやら最近は価値観も変わったようだ。
企業戦士気取りで世界各地に行かせていただいた時のことが、心の中のアルバムにたくさん残っている。30年前にアメリカで一緒に働いた友人からメールがあった。昔の仲間が書いたが添付されていた。いつの間にか疎遠になったを思い出させてくれた。
 
(左)工場建設(中国)      (右)長城に遊ぶ(中国)

 通い3年、住み込み2年で立ち上げた中国の合弁会社も、パートナー間のごたごたが続いた。親会社のヒラメ(社内の上しか見えない)族は現地事情を理解せず、自己保身のため足を引っ張ること多々。心身共にボロボロ、挫折感と人を信じられなくなって帰国した。気がついたらもうサラリーマン生活はゴール寸前、最後の赴任先一関市では、豊かな自然と暖かい人たちに囲まれて単身生活をエンジョイできた。

 休日には、汽車が懐かしくなると一関文化センターの
機関車に会いに行った。力強く回っていた車輪も今は動かない。見上げて「退屈かい」と声をかけると「おまえももうじき同じになるさ」と言ってるみたい。

 アウトドア派の友人に誘われて山に、川に遊びに行くうち、ゴルフ中毒もすっかり直った。自然の中を歩き、山の荒廃、川の汚染、自然破壊が気になりだし、残った人生にやらなくてはならないことがあることに気がついた。その友人を急性白血病で失い落ち込んだが、まだまだ、文化センターの機関車のようにはなりたくない。
 
(左)一関・磐井川の白鳥      (右)我孫子・手賀沼

 自宅は千葉県我孫子市、手賀沼の近くの高台で、
鳥の博物館がすぐ近くにある。その先には、景観に不釣り合いな水の館(ごめん!でもほんとうにそう見えたんだ。何年も見ていると不思議と景観にとけ込んできたけど・・・)もある。
 娘二人は結婚して独立、今は家内と猫二匹。なまえは「ミル」と「モモ」、まだ外の世界を知らない箱入り娘。山で採ってきたマタタビをお土産に持ち帰ったら、ネコの酔っぱらいになっちゃった。我が家に二匹が来てから、家内が単身赴任先の掃除に来てくれる回数が減ってしまい、ホコリ高き男の生活を送った。このネコたちも、人でいえばもう中年、以前より横着になったようだ。鳥の出てくる番組が始まると、テレビの前に来て、画面を見つめている。

 それから、「
文鳥もいた。これを書き忘れた」と娘二人にしかられたが、最後の二羽とも落鳥した。ペットの小鳥は家族に和やかな雰囲気を与えてくれたが、鳥は自然の中にいる姿の方がいい。もう飼うことはないだろう。

 子供のころから変わらないことは、なににでも興味を持って見に行くこと。毎日が日曜日になっても濡れ落ち葉にはならないと思う。(なっていないと思うのだが・・・・、「遊ぶこと以外、全部依存してるんじゃないの」は家内の弁。)

 一宿一飯の恩義もあって、一関紹介のホームページを出し、すっかり一関にのめり込んだが。毎日が日曜日になったら、もう少し広く東北を見て歩きたいと思っていた。一関を離れるとき、一関の大勢の方に送別会をしていただき、その後も一関市長から「いちのせき大使」を委嘱いただいた。その後、一関文化賞もいただいたが、これにはびっくりするやら、恐縮するやら、感激するやら。授賞式では足の裏まで汗をかいていた。一関を離れたら、ホームページのタイトルを「一関の思い出」にしようかと思っていたが、しばらく「一関からこんにちは」のままで続けることにした。ときどき一関を訪問して取材を続け、一関の友だちが取材して送ってくれる話題や写真で友だちからの「一関通信」をメインに更新を続けるつもりだった。

 家内の承諾も得ていたし、我孫子三分の一、一関を中心に東北が三分の一、住所不定三分の一、退職後はそんな気ままな生活が実現できると思ったが、単身生活の不摂生がたたって病院通いまでも割り込んできた。それでも、山開きの日には栗駒山に登り、室根に植樹祭があるからと言っては一関に出かけ、写真の師匠ブナを撮りに行くと言えば秋田・藤里町までついて行った。

 今夜は月食だとニュースで見れば、さっそく夜更かしして
月食を見る。鳥を見に行く人がいればついて行き、雪の北上川を下る話があれば押し掛ける。サクラが咲けばぶらりと出かけ、ボタンが咲いたと聞けばまた出かけ、アジサイはいつかとカレンダーに書く。室根山のツツジも見に行ったし、地元我孫子・手賀沼のあやめまつりもよかった。何もない日は手賀沼遊歩道を散策。カメラ片手の私と一緒では運動にならないと、家内はさっさと先に行ってしまう。それを小走りに追いかけるが、どうも息切れがするようになった。それで、カッパの噴水前で一休みすることが多くなったが、同じカッパがいろいろな姿を見せてくれることに気がついた。時たまカワセミだってカッパのところに遊びに来ている。

 かかりつけの順天堂循環器内科の鈴木先生に「手術のし頃になった」と言われ、2001年10月に大動脈弁を人工弁に取り換えた。胸部外科の高澤先生やスタッフのみなさんのおかげで順調に快復。6ヶ月間はおとなしくしているように言われ、自宅近くの手賀沼の朝を撮影しはじめた。手賀沼有情と題して撮った写真を掲載しはじめたので、お暇な方は覗いてください。

 福井県丸岡町の「日本一短い父への手紙」に、静岡にいる妹の手紙が出ていた。
 『「家出してやる!!」と言ったとき、下駄を揃えてくれた事覚えていますか・・・・・・。 杉田和嘉子 静岡県 ○○歳』
 そんなこともあっただろう、親父らしい。「もらい風呂の帰り背中で教わった星になる話、覚えていますか・・・・・」。になったから、ぼけも直ったことだろう。気がつけば、親父がぼけ始めた歳を越えた。

 岐阜にいる大学の同級生から「古稀おめでとう」とメールを貰った。満69歳、70歳にはまだ間があると思っていたら、古稀祝いは数え年70歳の祝賀なのだそうだ。満69歳誕生日の翌日、中学の同級生と酒を酌み交わした。「誕生日はいつ?」と尋ねられ「昨日」と答えた。あれが古稀の祝いになったようだ。