北上川流域の空撮に出かける横田実さん(2002.10.25)

 「一関からこんにちは」を立ち上げた当初から一関紹介の写真を提供して頂き、私が一関を離れてからの「一関通信」取材をお願いしていた横田実さんが、2004年12月17日に亡くなった。

 平泉の世界遺産登録を願って、長年撮りためてきた平泉の写真展を計画していた横田さんから、11月18日に電話があった。「俺、写真展は無理になった。用意した写真のことで相談したい」と。「そのうち一関に行こうか」と言うと、「来てくれるか、来てくれるならすぐ来てくれ」とのこと。翌19日に一関を訪問し、遊び仲間の菅原寿さん、平沢和則さんと横田さんに面会した。「体調を考えると来年写真展をやるのは無理だ。できたら写真展をやってほしい。できなくても、写真を複写してCDにすること、ホームページ上での写真展を頼みたい」と約200枚の写真を託された。

 数日後に写真と写真の説明を吹き込んだテープが宅急便で届いた。写真の複写作業を終えて、岩手日報社常務取締役編集長の宮澤徳雄さんにメールで写真展のことを相談した。折り返し宮澤さんから岩手日報社の企画として写真展をやって頂けること、2005年の夕刊の連載記事にこの写真を使うことを考えるとの返事を頂いた。そのことは菅原寿さん経由で横田さんに伝えた。「よかったな」と喜んでくれたという。亡くなる2日前だった。私にとって、宮澤さんはホームページ取材の師であり一関時代の飲み仲間。「一関からこんにちは」をスタートしたのも宮澤さんがパネリストを務めたパネルディスカッション「一関からの情報発信」に刺激されたから。12月17日昼過ぎ、宮澤さんから電話があった。「11時20分、横田さんが亡くなった」と。まだ69歳、早すぎる旅立ちだった。12月19日の岩手日報の一面「風土計」には横田さんのことが載っていた。

 2003年の3月、横田さんから電話があった。「俺、胃ガンになっちゃったよ」と。診断書に胃ガン、肺転移、大動脈リンパ節転移とあり、手術できないから抗ガン剤の投与を受けると聞いたときは耳を疑った。抗ガン剤の投与を受けると食べ物の味がわからなくなり、気分のすぐれない日が続いた。それを紛らわすように朝のジョギングと今まで以上の写真撮影が続いた。

 夏には転移ガンが消え、クリニックの勤務に復帰した。秋の一関国際ハーフマラソン5kmを完走、一関マスターズ陸上記録会ではM65クラスで200mと400mに大会新記録も出した。奇跡が起こったと思わせるような日々が続いた。今年冬には遊水地に飛来したカナダヅルを毎日観察・撮影、5月には一緒に栗駒山撮影。元気いっぱい近隣の出来事を撮りまくった。栗駒山登山は例年以上に多かった。最後の作品になった「竈神」を彫り終え、写真展用のプリントも取りそろえた。9月になって、一関国際ハーフマラソンの5kmを楽しそうに完走した写真が送られて来きた。そのころから食欲がなくなり、10月下旬には長年続いたジョギングもやめた。

 11月19日、横田さんの希望で昼食を共にした。奥さんの鰻重から茶さじ二杯ほどのご飯と鰻四分の一切れを食べた。「みんなと一緒だから食べられたよ」と箸を置いた。あれほど銀塩にこだわっていた横田さんが、コンパクトデジカメを手に記念写真を撮ってくれた。横田さん宅で200枚余の平泉の写真を見せてもらった。呵々大笑する今東光貫首の写真には、若いころ「魚屋」とかわいがってもらったとの思い出話。貫首が落髪して作家瀬戸内晴海さんが寂聴さんになったときの両方の写真、四季折々の中尊寺や毛越寺、写真コンテストで入賞したという延年の舞、平泉で繰り広げられた数々のイベント。一枚一枚説明を聞いても覚えきれない。写真に番号を振って、テープに吹き込むことを提案したら快く引き受けてくれた。翌日から数日間、奥さんと菅原寿さんの手助けで録音が始まった。体力のなくなった横田さんには楽な作業ではなかったと思う。作業が終わった翌日から入院した。

 私のホームページには横田さんが撮影した写真がたくさん掲載されている。その数以上に横田さんとの思い出は多い。「一関からこんにちは」は横田さんの写真で始まった。自分でも写真を撮りたくて、休日には横田さんと一緒に歩き写真撮影の手ほどきを受けた。毎日が日曜日になって、単身赴任先の一関から我孫子に戻ってからも、毎朝の手賀沼撮影を楽しんでいる。横田さんのおかげである。多謝。

 たくさんの趣味に走り続けてきた横田さん、ゆっくりとお休みください。
 さようなら、横田さん。
 でも、いつでも横田さんに会えます。思い出の中で。