一関の歴史
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建部清庵の救荒二書

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平泉藤原時代
その文化とひとびと


一関のおもいで
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舞草神社 横田実さん撮影
 原始・古代
太古の地質時代、一関地方は広大な湖になっていたが、狐禅寺付近が 削られて現在の北上川ができ、長年月をかけて北上盆地がつくられた。

 日本列島に人類が住みついたのは約十万年前頃だが、この時代は土器を使用せず、石器だけを使用する生活だった。一関ではこのころの遺跡はまだ見つかっていないが、一関市内では水口(真滝)、結渡(厳美町 山谷)、祭畤(厳美町)で一万数千年前の石器が見つかっている。

 一関地方は、遠い昔から東西の政治・文化・経済の接点となっていた。縄文中期には、東北南部の大木文化圏に属しながら東北北部の円筒文化圏の影響を受け、弥生時代にも南側から浸透してくる様相が認められている。

 縄文時代の遺跡には、庄司合(山谷)、樋ノ口(厳美町)、岡山(同) 四度花山(同)、上野(同)、荷掛場(舞川)、草ヶ沢(狐禅寺)、羽根 橋(萩荘)、八起島(同)などがある。

 一関は古代、磐井郡に属し、前九年の役(1051〜1062)の激戦地として知られている。この戦いは陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)を主戦場に安倍氏と源頼義・義家父子軍が戦った。出虫R北の豪族・清原氏の参戦で源氏軍が勝利し、安倍氏は滅亡した。その後藤原氏の東北支配下で平泉が政治・経済・文化のセンターとして栄えた。(右写真 平泉・春の藤原まつり 横田実さん撮影)

 その平泉の入り口にあった一関には、当時の文化的遺産として、泥田廃寺跡(平安末期)、延喜式内社の配志和神社と舞草神社、藤原時代の作とされる永泉寺本造聖観音立像、願 成寺の木造薬師如来像などが遺っている。また、舞草地区には、日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名が伝えられているが、刀鍛冶に直接係わる場所等の特定はできていない。

 中世
 文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐によって平泉の藤原氏が滅亡し、東北地方は鎌倉幕府の支配下に置かれた。ョ朝の軍に従い、その勲功によって葛西C重が奥州総奉行を命じられ、胆沢・磐井・江刺・気仙・ 牡鹿郡などの所領を与えられた。その後、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が滅亡するまでの400年間が中世と呼ばれている。

 この地方には葛西氏とその家臣が群居し、南北朝期から室町・戦国時代に入ると葛西氏やその家臣である中小土豪たちの所領争いが激しくなって、断続的に戦乱が続いた。山城といわれる城館はほとんどこのころ築かれたもので、一関市内だけで46ヶ所もある。

 14世紀に描かれたといわれる「骨寺村在家絵図」(右複製図 一関市勢要覧より)が中尊寺に残されていて、平成7年国の重要文化財に指定された。骨寺村は、中尊寺経蔵別当の荘園であった。経蔵は、藤原清衡発願の「紺紙金銀字交書一切経」などが納められていたところで、統括者の初代別当は自在坊蓮光。そのときから200年以上、骨寺村は経蔵別当領となり、村には田畑を耕作し一定の税を負担する在家と呼ばれる農民がいた。(左写真 慈恵塚)

 この頃の遺物としては、願成寺の鎌倉時代初期の作と伝えられる木造不動明王坐像、龍沢寺の弘安4年(1281)の石塔婆がある。

 近世
 国内統一を進めてきた豊臣秀吉は、天正十八年(1590)、北条攻めに 参陣しなかった奥羽諸大名の所領を没収し、奥州検地を実施した。これ により葛西・大崎の両氏が滅亡したが、新領主木村氏は旧勢力の一揆の 頻発により失脚した。

 この一揆鎮圧の後、一関地方は伊達政宗の支配下に入り、政宗の重臣 茂庭綱元が天正十九年(1591)から慶長八年(1603)まで赤荻など磐井川 左岸を所領し、留守政景が慶長九年から元和二年(1616)までの十二年 間一関城に居城した。一関の城下町づくりはこの時代に着手され、町の原型ができあがった。(左写真 留守政景の墓)

 寛永十八年(1641には政宗の末子の伊達兵部宗勝が二関村などを支 配した。万治三年には三万石を領有し最初の一関藩主になった。伊達綱宗隠居後は幼少の亀千代の後見役として、仙台藩六十二万石の実権を握ったが、寛文事件(伊達騒動)の中心人物として寛文十一年(1671)に 処罰された。

 天和二年(1682)、田村宗水(のち建顕と改名)が一関への所替で家臣とともに岩沼から一関へ入部した。このときから一関の町づくりが本 格的に行われた。一関藩は仙台藩六十二万石のうちから三万石を与えられた仙台藩の支藩であったが、建顕は将軍直属の大名として、老中・若年寄に次ぐ奉者番の要職についた。その後、浅野内匠頭の田村邸内の切腹や改易による津山城受け取りの使者となるなど有名な事件に関わってい る。(右 建顕像 祥雲寺蔵)

 わずか三万石の小大名の田村氏は、経済的にも苦しかったにもかかわらず、歴代藩主は学問を奨励し、農民や町民でも才能ある者は士分に取 り立て、藩校で教授させるなど、教育に力を注いだ。この環境のもとで、「一関 学館」の創設を提言した町人・関運吉(養軒、元龍)、備荒作物の栽培方 法、食料備蓄の方法、山野の雑草木の食べ方・効用などを書いた「民間備 荒録」を著わした二代目建部清庵由正、蘭学の入門書である「蘭学階梯」 を著し、最初のオランダ学塾、芝蘭堂を開いた大槻玄沢、関流和算を究 め「算法新書」を著した千葉雄七胤秀など、先駆的役割を果たした多く の人々が、この時代に一関から生まれていった。

 幕末・維新期
 慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還して江戸幕 府は滅びた。しかし翌年、薩摩・長州などの西南諸藩を中心とする明治 新政府と、新政府の急進的な行動に抵抗して、仙台藩を盟主に奥羽越列藩同盟が成立した。

 一関藩は仙台の本藩から、同盟を脱退した秋田藩への討伐を指示され、 秋田戦争へ突入した。一関藩士227人が須川を越え、秋田領小安、増田、 南楢岡へ侵攻し、刈和野で秋田・薩摩軍と激戦を交えた。結局は本藩の降 伏により一関藩も政府軍に帰順することになり、戦死者34人の犠牲者を出して帰藩した。戦死者は刈和野本念寺に埋葬された。(左写真 刈和野本念寺・戦死者の墓)

 この秋田出兵に、後に明治の著名な外交官になった一関藩士高平小五郎が従軍していて、刈和野から一関へ引き上げる途中負傷して倒れた。 このとき、弥栄村の従軍農夫が高平を助けて帰還したという逸話が伝えられている。(右写真 高平小五郎銅像・釣山公園)

 戊辰戦争後は三万石から三千石を減封され、藩主は引退。天皇に版(土地)と籍(人民)を納還した版籍奉還、廃藩置県を経て一関県と改められ、一関藩は消滅した。

 近代・現代
 明治4年(1871)廃藩置県によって一関藩は一関県になり、県庁は 旧一関藩知事田村邸に置かれた。その管轄区域・行政ともに藩政時代の延長であった。4ヶ月後には同じ名称であるが、行政区域は全 く違う新しい一関県が誕生した。しかし、わずか40日後には水沢県と改められて、一関県は消滅した。明治8年には磐井県になり、この間に県庁も一関から寺池、そして一関と変転した。

 明治9年(1876)磐井県は廃されて岩手県になり、盛岡に県庁、一関に一関支庁が置かれた。(左写真 明治末期の郡役所・・裁判所 「20世紀の一関」より)

 明治23年(1890)の日本鉄道東北本線の開通と一ノ関停車場の開設、さらには大船渡線の開通により、人や物 資を短時間で大量に輸送できるようになって、一関は発展した。この影響で、戦前は 養蚕、製糸、煙草製造、材木などの産業が活気づいた。

 第二次世界大戦では一関でも一ノ関駅や山目小学校前等にアメリカ軍の爆弾が投下され、三十余名が犠牲になった。

 また、終戦直後の昭和22年(1947)のカスリン台風による洪水で市 街地も大きな被害をうけた。翌23年のアイオン台風では、磐井川の鉄砲水のため、前年を上回る害になった。しかし、市民のたゆまぬ努力 によつて復興し、経済力も徐々に回復した。

 昭和23年に、生活・経済などに深い関わりのあった一関町・山目 村・中里村・真滝村が合併し一関市になった。昭和30年(1955)、 さらに厳美村・萩荘村・弥栄村も合併して現在の一関市が誕生した。 平成10年はカスリン・アイオン台風の災害から50年、そして市政50周年を迎えた。(写真右 市政50周年式典 横田実さん撮影)